谷汲山 華厳寺

山号 谷汲山(たにぐみさん)
寺号 華厳寺(けごんじ)
創立 延暦十七年(798)
開祖 豊然上人 大口大領
本尊 十一面観世音菩薩(秘仏)
宗派 天台宗
札所 西国三十三所観音霊場 三十三番札所
東海白寿三十三観音霊場 三十三番札所
東海三十六不動尊霊場 三十三番札所
御詠歌 (過去) 万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲
(現在) 世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも消えぬなりけり
(未来) 今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲

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谷汲山の縁起

谷汲山 華厳寺

「谷汲さん」の愛称で親しまれる当山は、山号が「谷汲山(たにぐみさん)」、寺号が「華厳寺(けごんじ)」といいます。 寺の草創は桓武天皇(737-806)の延暦十七年(798)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。奥州会津の出身の大領はつねづねより十一面観世音の尊像を建立したいと強く願っており、奥州の文殊堂に参篭して一心に有縁の霊木が得られるようにと誓願を立て、七日間の苦行の末、満願(七日目)の明け方に十四,五の童子(文殊大士と呼ばれる)の御告げにより霊木を手に入れる事が出来ました。霊木を手に入れた大領は都に上り、やっとの思いで尊像を完成させました。 そして京の都から観音像を奥州へ運んでいこうとすると、観音像は近くにあった藤蔓を切って御杖にして、御笠を被り、わらじを履いて自ら歩き出しました。途中、美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)にさしかかった時、観音像は立ち止まり、「遠く奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」と述べられ、奥州とは異なる北に向かって歩き出しました。 そうしてしばらくした後、谷汲の地に辿り着いた時、観音像は歩みを止め、突然重くなって一歩も動かなくなったので、大領はこの地こそが結縁の地だろうと思い、この山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊然上人という聖(ひじり)が住んでいたので、大領は上人と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉りました。すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、それより後は燈明に困ることが無かったといいます。

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皇室と谷汲山

谷汲山 華厳寺

この話を聞こし召された醍醐天皇(885-930)は谷から湧き出る油を灯明に用いた事にちなんで「谷汲山」の山号、そして「華厳寺」の扁額を下賜せられました。この寺号は御尊像に華厳経が書写されている事にちなむとされています。 その後の天慶七年(944)、朱雀天皇(923-952)より鎮護国家の道場として勅願寺に定められ、仏具・福田として一万五千石を拝領賜りました。 また西国巡礼中興の祖とされる花山法皇(968-1008)は西国三十三箇所の霊場を御徒歩で御巡幸あらせられ、当山を第三十三番札所の満願所と定められ、御禅衣(笈摺)、御杖、及び三首の御詠歌を奉納せられました。また、およそ百八十余年を経て後白河法皇(1127-1192)は、先帝花山法皇の御跡を慕われて同行千有余人を従えて御巡幸あらせられました。 それから後は建武元年(1334)足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱を始めとする戦乱で幾度と諸堂伽藍を焼失するも、このような危難の中、御本尊だけは辛うじて後方の山中に移し奉って御安泰なることを得ました。 以後文明十一年(1479)の再興までは二度の兵燹に遭い、一時期は衰退を迎えるも、人皇百五代・後土御門天皇(1442-1500)の御宇、文明十一年薩摩国鹿児島の慈眼寺住職道破拾穀(どうはじっこく)上人が或る夜夢に当山の観世音菩薩が現れ、「汝は有縁の僧なれば早く来て諸堂を旧観に復せよ」との御聖勅によって海山を越えて遥々尋ね来て、本堂及び諸堂を再興して尊像の御心を安め奉ったのです。 このように当山は古来より観音信仰の霊験厚く、また天皇、法皇を始めとする皇室、朝廷、有力豪族や民衆からの帰依厚く、益々の隆盛を極めました。 今日では日本最古の観音霊場である「西国三十三所観音霊場」の第三十三番札所の結願・満願寺として知られ、また春には桜、秋には紅葉の名所として賑わいをみせています。

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